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政治への関心
忙しいので少しだけメモ程度に。

日本人は政治への関心が低い、メディアに影響を受け過ぎという批判を国内外から聞くけど、それは仕方がないことだと知った。

だって2大政党制じゃないから。

つまり選択肢が2つしかなく、それがもう一方と明らかに異なる立場が示されているなら、国民は政治的な判断がしやすい。右か左の二者択一。

しかし日本では政党じゃなくてその地域の立候補者の印象で判断する。だってごちゃごちゃしていてどの政党に投票すべきか分からないし、また誰に投票しても変わらないから。

自分もひどく政治に無関心だけど、これを言い訳にしないで勉強しようと思う。かなり時間はかかるだろうけど、投票するのに十分な知識を身につけなければ。


インターンについてもまとめようと思うけど、とりあえず現状はとても楽しい。だって年間の広告費の総額が国内3位のUnileverのメディア戦略に携われるわけで。でも広告代理店で今後もずっとこの仕事に関わりたいって思いは弱い。4Pのうち一つしかいじれないし。またデータに基づいて論理的に組み立てるだけなのでそこにアイデアの「新しさ」はない。
日本企業の新常識「国内採用抑制、海外採用増」
http://president.jp.reuters.com/article/2010/05/17/07EDD7EC-6181-11DF-9170-10273F99CD51.php

いろんな人に紹介されている大前氏のこの記事だけど、日本企業が海外採用を増やす傾向は仮に日本の学生が有能であったとしても当然の流れかと。もともと日本企業が海外支店のマネージメントを現地人に任せないのがずっとおかしかったのであって(本社と日本語で連絡を取れないから?)、今後グローバル採用は必須。また有能な人材を雇うためには現地人に経営まで任せるべき。

だから「日本の学生が無能だから国内採用抑制、海外採用増」という命題は必ずしも真ではない。つまり大前氏が主張する「日本の学生は無能」→「海外採用増・グローバル採用は必須」→「学生はもっと勉強すべき」は成り立たない。「日本の学生は無能」+「海外採用増・グローバル採用は必須」→「学生はもっと勉強すべき」なら成り立つけど。

パナソニックのような日本を代表する企業が採りたがらないくらい日本の学生は無能であると書けばよりセンセーショナルになるからこのように書いたのかも。

あと大前氏の学生時代の話だけど、標本抽出方法がおかしい。「四当五落」とあるが4時間睡眠でなきゃ入れない大学を受験する学生はやはり一部であるはずで母集団を代表していない。


テスト勉強から逃げたくてこんなことを考えていた。全く更新できていないのにアクセスログが毎日そこそこあって嬉しいやら申し訳ないやら。

週5のインターンと4つの期末テストのせいでずっとブログを更新する時間がなかったけど、それも次の火曜日まで。ただ毎日何かしら思うところがあってメモだけはかなりたまった。まあ社会人にこっちのキャバクラに連れてってもらったりするぐらいだからそこまで忙しいわけじゃないんだけど。

あと一ヶ月と一週間。
就職活動における差別化戦略
最近、早く働きたいと思う。社会人と話すと、自分は何も知らないことを痛感するし、一方で自分が社会人からそういう目線で見られることも悔しい。何を学ぶにしても最初は他人の真似から始めるのが効率的であって、今の自分は社会人の真似をしたくてたまらない。つまり実務面で身につけたいことがいっぱいある。

昨日は某商社の人事担当者と飲み会の席で一緒になったら、社会人数人の前で模擬面接が始まった。ところどころ本質をついたアドバイスをくれるのでかなり参考になった。

自分なりの解釈でアドバイスをまとめる。

どのように差別化を狙うかがポイント。

志望動機のみで差別化することは難しい。だって学生からしてみればどうしてもその企業じゃなきゃいけない理由ってほとんどないはずだし、仮にあったとしても動機そのものはみんな似通ってくる。だから志望動機をごちゃごちゃ話すべきでない。

志望動機で重要なことは、いかにそれについて目を輝かせて話すことができるかぐらい。何かをやりたいって気持ちは感情的にしか説明できないし、それは社会人が求める学生らしさだと思う。一方で論理は後付けにしかならない。そんな後付けの、しかも似通った動機を長々と聞かされても面接官は退屈するだけ。

何よりも伝えるべきことは、行動の一貫性だと思う。行動に一貫性があると、志望動機に重みを持たせることができる。その「重み」が差別化につながる。

つまり「自分は…してきたから〜したい」ではなくて「自分は〜したいから…してきた」と伝えることを面接の軸にするべき。「言うは易し」ってよく言うけど、学生が口を揃えて「御社で〜したいです」って言っても面接官には響かない。だから「自分が〜したい」という気持ちが本当であることを実際の経験を例にして証明しなければならない。また志望企業で働くことが行動の一貫性と整合性がとれていることも重要。

就職活動のことで頭がいっぱいになっているみたいで恥ずかしいけど、他人から自分への印象の管理という意味でこれは今後の人生でもとても重要なことだと思う。
自分の仕事観
昨日はまたHyde Parkを散歩する。上半身水着で芝生に寝る女性もいるくらい暖かく気持ちよかった。日差しが反射する水面、鳥のさえずり、そして家族や恋人の情景。

仕事について考えたことを少しまとめる。

自分の場合、やりたいことと仕事は一致しない。というか、それが一致する仕事はほとんどない気がする。教師、ジャーナリスト、弁護士みたいな使命感がある仕事とか、コンテンツ産業とか。自分のやりたいことはマーケティングを通して新しい視点を学んだりみんなの生活を少し豊かにすることだ。だけどマーケティングは自分がやりたいことを実行するための手段の一つでしかなくて、仕事である必要はない。

自分にはやりたいことがたくさんあるしまたそれらは流動的であるので、特定の就きたい仕事はない。でもどのように仕事をしたいかということに関しては、自分はすでに明確な答えを持っている。

自分は自分に責任を持って仕事をしたい。つまり仕事の結果が良くても悪くても、その責任を自分に求めれるようになりたい。責任を持つということは主体的に考えるということであって、そうでないと仕事なんてつまらない。

一方で責任を持つためには相応の能力を身につける必要がある。だから目先の就職活動では得られる経験値を軸に企業を志望する。

外部要因によって自分の仕事に責任を持てないことってよくあると思う。上司の指示の範疇を超えて働くことが許されなかったり。本を読んだり社会人の話を聞く限り日系の大企業のほとんどはそうらしい。でもそんな仕事は何もおもしろくない。

現在のグルワでも、一人を除いてメンバーは論理的な会話ができなく、自分の提案を理由もなく拒絶し、意図の分からない作業を続けるので、久しぶりに自分の心は折れた。自分の旅行中に修正不可能な方向へ進んだことも大きいけど。だから今自分はグルワで何をしているのか分からないし頼まれたことを最低限こなしているのみだ。

仕事でもグルワでも結局は自分に十分な能力がないから状況を変えることができない。だから自分は中途半端な能力じゃなくて圧倒的な能力が欲しい。initiativeを獲得するために。

仕事も含め、自分は自分の人生に責任を持ちたい。そのために自分は勉強する。実直に、泥臭く。

追伸:インターン受かった!しゃ!!
宗教についてのあれこれ
ベルリンに旅行した時、ドイツ人の友達の家に滞在させてもらった。親が牧師さんで彼も毎週礼拝をしている。彼はびっくりするぐらい人間ができていて、彼といると周囲の多くの人は居心地よく感じる。彼自作の名所ガイドのプリントと俺のためにわざわざ買ったベルリンのガイドブックを片手に迎えられた時はさすがにびっくりしたけど。

本人曰く、彼の価値観はキリスト教に依るところが大きいらしい。彼は家庭環境によって宗教的な習慣を身に付けただけであって、熱心に信仰しているわけではない。しかしその習慣が彼の人格形成に影響を与えたことは間違いないらしい。

程度の差はあるが、宗教は個人の価値観の形成に影響を与える。これを社会全体で考えると、宗教は他人とある程度価値観を共有することを可能にする。そしてこの価値観は現代では社会共通の規範であると認識されていて、それは一般的に集団生活を営む上で重要な規範である。

このように宗教は現代にいたるまで社会で規範とされるべき価値観を規範たらしめる点で結果的にだが意義がある。もし現代に宗教とその歴史がなければ人を思いやるといった価値観は規範にならず利己的な人の多い社会になっていたかもしれない。


次に現代における信仰について少し自分の考えをまとめたい。

上に書いたように宗教は他人と価値観を共有することを可能にするが、信仰はより深く共有することを可能にする。つまり習慣・文化として受動的に共有されていた価値観は信仰を通して能動的に共有される。

ベルリンで高校生がゴスペルを歌う100人くらいの規模の集会に連れて行ってもらった。その場の全員が一様に世界の平和を願い愛を語る様子は見ていてとても居心地よかった。素直に幸せを感じた。

でも結局宗教は個人とそのコミュニティしか幸せにしないのも事実だ。願ったり慈善活動したりじゃ根本的な問題の解決に至らない。


最後に宗教の柔軟性について。特にイスラム教についてかな。

パリでホステルに泊まっていた時イラン人留学生と仲良くなっていろいろと話を聞いた。といっても彼はイタリアでPh.Dを取ろうとしているぐらいだから大分年上なんだけど。

エジプトでもそうだったけど、特に若い世代の間では熱心なムスリムはほとんどいない。みんな闇市でお酒を買ってくるし、女性の処女規範の意識も低くなったそう。それなのに政府や宗教指導者は依然として厳格にコーランの教えに従っていたり。

文化は変化するものだから、過度にその保全に努めるべきではないと思う。過度にって言うのは、人の幸せを妨げるくらいに。1400年も昔の聖典に書かれていることが現代と矛盾しないわけがない。必要な変化は許容すべき。


あれこれ長々書いたけど、宗教関連の本は全く読んだことがないので完全な私見になってしまった。的外れな発言が多そうで恥ずかしい。


今日はインターンの面接だった。英語を話す時に特に感じるけど、論理的に思考する能力と論理的に伝える能力は全く別のものだと思う。あといい加減英語のリズムを覚えないと。
志望企業はマーケティングリサーチとメディア関係のコンサルタントが主な業務。クライアントはネスレ、ユニリーバ、ナイキ、フォードとか。そしてオフィスがある建物はベインと一緒!

受かってるといいなー
日英における大学教育の比較
講義は再来週で終わるので、この時期はプレゼンにエッセイにそこそこ忙しい。イギリスでは学年の最後に秋学期と春学期の両方のテストを受けるので5月のテスト期間はもっと大変らしい。

学部授業を受けたのはわずか3ヶ月の間だったが、イギリスと日本における大学教育の違いを認識するのには十分だった。それほど違いは明確だ。

少なくとも文系において、日本の大学教育はほとんど機能していない。一般的に日本の大学が提供するものは学問的な知識だけであって、それは自分で教科書を読めば事足りる。講義で出たところを暗記しテストでそれを答えるという点において、日本の大学は高校と何も変わらない。

海外の大学全般について言われることだけど、イギリスの大学も課題がとても多い。エッセイだったりグループワークだったり種類もいろいろ。全ての授業でそうなので、学生はかなり大変。

こういった課題には完璧な正解が用意されていない。講義で得た知識を用いてどのように自分の考えを伝えることができるかが評価の対象になる。このような課題を大量に解くことで学生は自分の頭で問題を考え抜く力を養うことができる。これは社会に出たらさらに求められるようになるだろう。

一方課題が山ほどあるため、何のためにやるかとかどうすればよりよくなるかとかを考えずに例年の標準的なレベルで課題を提出して満足する学生が多いのも事実だけど。

ちなみに日本は会社に入っても同じらしい。上司が求める仕事だけすればよく、自主的に何かをしても評価されない。ただ日本にある外資系の会社も上司が日本人である以上、こうした企業文化にあまり違いはないって最近よく聞くけど。


結論。日本の大学がこんな状況にあるからこそ、日本の学生は自分で自分の教育をデザインし、大学の外の世界にも関心を持つべき。そのためにはまず大学の勉強は高校の勉強と本質的に異なるべきだと認識しなければならない。自分はそれを認識するだけで2年近く時間をかけてしまった。
あとそんな主体的な学生は企業に好かれないらしいので、自分の見せ方を学ぶことを早くから自分の教育の一部に入れるべきかも。
心のゆとり
イースター休暇も終わり、今週から授業が再開した。休暇を利用してウィーン、ベルリン、パリに行き、久しぶりに余裕のある日々を送ることができた。美術館以外にも滞在中の面倒を見てくれたドイツの友達のこととか、憧れだったモンサンミシェルのこととか書きたいことはいっぱいあるけど、今回は最近の自分の価値観の変化について書こうと思う。

目的に準ずる生き方にいい加減疲れた。そうしたら自分の中の矛盾点が見えてきた。

自分は目的に準ずる生き方、言い換えれば生産的な生き方を幸せな生き方だと考えていた。目的に応じて目標を設定し、その達成を目指し行動する。自分の行動はそんなふうに規定され、そうした行動の集合によって生活が構成されていた。例えば、お酒を飲んだりマンガを読んだりして息抜きもするが、それらはその後の行動の生産性を高めるためのものでしかなかった。また睡眠は次の日の生産性を高めるもので、6時間以上寝てしまって起きた朝の自分への嫌悪感は凄まじかった。確かに目標を達成した瞬間は嬉しい。だけど次の目標、また次の目標と行動と達成を繰り返すほど自分の世界は広がり、自分は新たな目標を際限なく設定する。だから疲れる。

何かを求めないでも幸せになれることを認識すべき。友達や家族と話したり、運動をしたり、景色を眺めたり、何もしなかったり。有意義とか無意味とかそんなこととは関係のないところに幸せはあると思う。


幸せとは心にゆとりを感じる状態のことだと思う。

目標を適えることで幸せを感じるが、それは達成感という心のゆとりが生まれるからだ。他にもおいしいものを食べたり、たくさん寝たり、自分たちはいろいろな欲求を持っている。そして自分たちはそれらを満たすことで心にゆとりを感じ、幸せを感じる。

一方、自分たちは欲求を満たすことができなくても幸せを感じる。それは自分たちが意識の有無に関わらずどんな状況にも適応することができ、心にゆとりを感じることができるからだ。例えば、大きな失敗も振り返ってみれば笑い話だったなんてことはよくある。

つまり幸せであるかどうかは心にゆとりを感じるかどうかであって、自分の欲求を満たす必要はない。極論を言えば、自分たちは心にゆとりを感じていれば、何もしないでも幸せを感じることができる。

しかし心にゆとりを感じることは難しい。お金、時間、能力、社会的評価などへの様々な欲求が心からゆとりを奪うからだ。

欲求を満たすことは悪いことではないけど、過ぎた欲求によって心にゆとりを感じることができなくなってしまったら本末転倒だ。無理をしないで現状を許容すること、これが一番大事だと思う。人生で最も大切なことは欲求を満たすことじゃなくて幸せであることだから。

合理的に考えて、幸せであるために欲求を満たす必要がなく、また欲求が心からゆとりを奪いがちならば、何も欲求を持つべきではないという意見は正しいかもしれない。禅僧みたいな。でも自分は泥臭く情熱的に生きたいので、自分の欲求に素直でありたいと思う。

こんなことを考えていたら、自分の好きな言葉を思い出した。
"the test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function."
-The Crack-Up (1936), F. Scott Fitzgerald
「欲求を満たすために行動すること」と「こころにゆとりを感じること」は相反しやすい。でもこれらを両立させることができれば、その人物は一級の知性を持っていると言うことができるだろう。


最後に関連した話題を扱った2つのスピーチを貼付けてみる。




2つ目のスピーチでは、創造性を必要とする仕事では報酬は仕事の効率を下げる、ということを科学的に説明している。つまり何かに捕われ過ぎると創造性を失うということ。目的志向で生きてきた自分は、その目的に捕われ過ぎて問題解決の創造性を失っていたのかもしれない。

英語の重要性
月曜日のbusiness strategyのセミナーの先生は暑苦しい。中国系で体格が良くていつもぴちぴちの洋服を着ている。彼は10数人の生徒のうち自分の名前だけ覚えていて連呼してくる。しかも情熱的に。

「トシヤ、分かったか?」
「トシヤ、これはお前のための質問だぞ?」
「トシヤ、この答えは何だ?」

こんな感じ。そして連休明けの昨日のこと。

「トシヤ、俺は先週お前の国へ行ったが何なんだ?トシヤ、誰も英語を喋れないじゃないか?ホテルのスタッフでさえ喋れなかったぞ。トシヤ、日本の国際的競争力は以前とは違うんだぞ?トシヤ、これでいいのか?」

とりあえず彼の言葉の全てに「トシヤ」と「?」があった。

そんなことはどうでもいいんだけど、日本人の英語力についてもう一度考えてみたいと思う。

自分にとって日本の国際競争力の議論はあまり興味がない。日本はすでに経済的に十分に恵まれた国であるし、国内の格差問題については国際競争力を高めるよりも社会保障政策の見直しをする方が重要だと思う。経済的、政治的な根拠があるわけではないけど。

自分は好きな人だけ任意で英語を勉強すればいいと思っている。英語を話せなくても日本人は不自由なく生活することができるし、英語の習得に何時間も割くくらいなら他にもっとすべきことがあると思う。

しかし英語を話せない人(自分を含め)は、話せる人と比べて少なからず損をしているのも事実だ。アクセス可能な情報量において、英語を話せない人はインターネットを使えない人と似ている。英語を話せない人は予想以上に貴重な情報を失っている。

英語を勉強すべきかどうかは自分のやりたいことに従って決めればいいことだけど、英語を話せない人は「自分が考えているよりも確実に多くの情報を失っている」という事実を認識することが大切だと思う。
私の個人主義
評価:
夏目 漱石
講談社
¥ 693
(1978-08-08)

夏目漱石の講演をまとめたもの。やはり当時における漱石の視野の広さには舌を巻く。

現代では科学の発展と教育の普及によってより多くの人が個人主義的な思想を持つ。生活する上で個人は社会に依存する程度が極端に低くなり、個々の行動はそれぞれの価値観に基づいて決定される。そして個人主義的な人間は今後ますます増えていくだろう。

そんな現代において、漱石の主張はより重要に感じられる。漱石は個人主義を利己主義とはき違えないで欲しいと述べている。利己主義という言葉そのものは使われていないけど。

「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」「自分が他から自由を享有している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければならんことを信ずるより外に仕方がない」

このような漱石の徳義を重んじる姿勢は大好きだ。自分が個人主義を尊重する以上徳義を重んじることを他人に強制することはできないけど、そういった人が多い社会は楽しいと思う。個人主義は人を孤独にする側面も持つから。

でも自分は徳義よりも愛情が大事なんじゃないかと思う。そもそも徳義は個人や社会によって大きくその中身が変わるから。漱石の言う徳義は主に他人を思いやるということを意味していて、その意味で愛情とほとんど同じかもしれないけど。自分の言う愛情はラスコーリニコフのソーニャへのそれ。


漱石は国家的観念を強く意識するべきではないと言う。「国家というものが危うくなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もいない。」から。この説明は現在では通じなくなってきている。

以下、池田信夫のツイートから。
きのうのセミナーで「このままでは、あと20年もすれば、日本は中国の衛星国家になるおそれが強い」といったら、20代の受講者から「私もそうなると思いますが、それで何か困るんでしょうか」。私「・・・」。誰か、ここに入る答を考えてください。

自分も同じ意見だ。個人主義の行き過ぎた結果として、個人が感じる国家の存在意義は薄れてきてしまったと思う。その善し悪しは別にして。


話は逸れるけど、これからは哲学関係の本を読み始めようと思う。今まで文学と自分の経験から考えていたことが、それらの本を通してより明確な答えを出すことができる気がする。というのは自分が今考えていることの多くが過去に考えられてきたことと同じらしいから。特にニーチェの思想の多くにとても共感する。強さのニヒリズムとか力への意志とか。あと実存主義から構造主義への変容は分かるけど、両者が相容れないものだと理解できないし。他にも、自分は決定論を認め自由意志も認める両立主義的な考えを持っていたり。政治思想ではリバタリアニズムとかも。
名画を見る眼・カラー版 西洋美術史
評価:
高階 秀爾
岩波書店
¥ 735
(1969-10)

評価:
高階 秀爾
美術出版社
¥ 1,995
(2002-12-10)

ウィーンとパリの旅行で多くの美術館を巡る予定だったので、どうせならしっかり勉強しようと思い購入した。2、3月に勉強の息抜きに読んでいたんだけど、本の中は赤線でいっぱいになってしまった。

「名画を見る眼」ではルネッサンスから19世紀までの15点の「名画」の解説を読むことができる。今回の旅行でそのうちの6点を見ることができた。その中でも、レオナルド「聖アンナと聖母子」とフェルメール「画家のアトリエ」は特に印象的だった。

「西洋美術史」では流行の移り変わりを理解し、画家の名前を覚えるのに役立った。個人的には新古典主義、ロマン主義あたりが好き。ダヴィット、アングル、ドラクロワとか。この本を片手に美術館を歩き回るのは少し恥ずかしかったけど、載っている絵の多くを見ることができ満足。

絵画を見るのに知識なんていらない、見て楽しめればそれでいいって言われるけど、自分はそう思わない。知識は名画を名画として見ることに役立つ。新たな視点は絵の印象を180度変える。

でも実際は自分が絵画の鑑賞を素直に楽しむことのできないから、必死になっているだけかもしれないけど。というか自分の主観を絶対に信用しない態度がそもそもの問題か。


旅行で訪れた美術館は以下の通り。
ウィーン:美術史美術館、ベルヴェデーレ宮殿、アルベルティーナ美術館
パリ:ルーブル美術館、オルセー美術館、国立近代美術館、ロダン美術館、オランジュリー美術館、マルモッタン美術館
ちなみに、ベルヴェデーレ宮殿、ルーブル美術館、オルセー美術館は2回行った。

結局絵を見て心の底から感動するようなことはなかったけど、おおむね楽しめた。絵の中の人物の表情を研究したり。

ロダンの彫刻はジョジョのポーズにそっくり。実際はミケランジェロの影響を受けているらしいけど